さて、ここで問題です

なにを言っても「いやだ!」と答える二歳児に、こちらの思い通りの行動をとらせるにはどうすればいいでしょう?

毎日、こんな論理パズルを出されている気分。
大人として、知恵を試されている。

あるところに、正直村と嘘つき村があって、どんなことにも正直に答える村人と嘘しか言わない村人がいたりするらしい。
そんな感じで、うちには「いやいや村」の子供がいる。

広告

まくちの謎

空想力のついてきた息子は、見えないものを手に持っている。
「おかし、もってる」
「おまめ、もってるよ」
自慢げにそう言って、見えないものを見せびらかす。

そんなある日、息子が言った。
「まくち、もってる」
まくち? なんじゃ、そりゃ。

「まくちって、なに?」
「まくち!」
「食べるもの?」
「たべない!」
「どこにあるの?」
「ぽっけ、はいってる」
「だれにもらったの?」
「びそら(近所のショッピングモール)で、かった!」
「だれが使うの?」
「ととくん!」

うーん、全然わからないぞ。
まくちって、なんだ……?

要領を得ない二歳児との会話は、水平思考パズルを思わせる。

水平思考パズルというのは、シチュエーションパズルともいわれる推理ゲームの一種で、出題者が提示した謎に、ほかのひとがさまざまな質問をして、真相を探っていく。
代表的なものに「ウミガメのスープ」がある。
「ある男がレストランでウミガメのスープを注文した。彼はそのスープを飲んだ後、自殺をした。なぜか?」
その謎に対して、
「男はそのレストランに知り合いがいたか?」 「NO」
「そのスープにおかしなものは入っていたか?」 「NO」
「男はウミガメのスープを飲んだことで、自殺を思い立ったのか?」 「YES」
「男は過去にもウミガメのスープを飲んだことがあるか?」 「YESでもあり、NOでもある」
などというやりとりをしながら、背後にあるストーリーをあぶりだしていくのだ。
ポイントは、どんなことをたずねると有益な情報を引き出せるかというところで、ずばり核心に切り込むような質問を思いついたときは、とても楽しい。

まくちの謎については、以下のやりとりで、答えにたどりついた。
「それ、どうやって使うの?」
「おくちにして、つかう」

原稿執筆専用テキストエディタ

文章を書くのには、もうかれこれ十年ほど、WZ Editorというソフトを使っている。
そのおなじ会社から原稿執筆専用のテキストエディタ「WZ Writing Editor」というものが発売され、体験版を使ってみたところ、なかなかよい感じなので、購入してみた。

WZ Editorはプログラムを組むのにも便利なエディタだったのだが、以前は自分でホームページを作成していたけれども、ブログに移行して、もうHTMLを手打ちすることもないだろうし、Writing Editorのほうがシンプルで、いまの自分のニーズに合っている。

そういえば、物書きをしている友達とは内容についての話はするのに、どんなエディタを使って書いているのかを訊いたことがなかった。重要なことだと思うのに。
世の長文を書くひとは、なにを使っているのだろうか。
Word? 一太郎? 秀丸? アウトラインプロセッサ? 原稿用紙と筆記具?

ツリー構造は少し試してみたこともあるが、肌に合わなかった。
巻物のように、ずらずらと文章を綴っていく感じが好きだ。

なにを使って書いていてもおなじかもしれない。
でも、なにを使って書くかで、作品が変わる気もする。

言葉を教える

息子に「ありがとう」という言葉を教えている。

当初は、あえて言葉を教えるということには、疑問を持っていた。
なにかしてもらったとき、贈り物をいただいたときなど、本当にうれしくて、相手の好意が有り難いことだと感謝の気持ちでいっぱいになり、その心から「ありがとう」という言葉が発せられるのが本来のあり方であって、口先だけで言うことに意味はあるのか、それを習慣として教え込むのはどうなのだろうかという気持ちがあった。

自分自身のことを考えてみると、お中元やお歳暮などでジュースやゼリーやフルーツなどをいただいたときはうれしいが、添加物の多いハムだったりすると、本音のところではあまり有り難くなかったりする。そういう場合など、どんなときにもおなじように「ありがとう」を使うのは、言葉に対して不誠実ではないかという気がしてしまう。どうせなら、こちらのうれしさ度合いをうまく伝えたほうが、先方にとっても有意義といえるのでは……という思いも頭をかすめたり。
しかし、そのもの自体がどうこうという問題ではなく、やはり、ここで重要なのは自分のために贈り物をくれる相手の気持ちであるし、それに対しては「ありがとう」というのが、礼儀なのだろう。
社会をうまくまわすため、円滑なコミュニケーションのために、礼儀というものはあるのだ。

そう、自然な感情の発露は放っておいても勝手に行われるが、礼儀は教えなければ身につかない。
だから、いくつかの言葉を意識して、息子には教えている。

「もらったら、ありがとう、だね」
「よかったね、うれしいね。ありがとう、言った?」
「はい、どうぞ。……どうぞされたら、どうするんだっけ?」
「こういうとき、なんて言うの?」

食事を手渡したとき、落としたスプーンを拾ってあげたとき、絵本を読んであげたとき、くつしたをはかせてあげたとき……などなど、どんなささいなことであっても、なにかをしてあげたときには、必ず、お礼を言わせるようにしているのだ。
恩着せがましい感じもするし、はっきり言って面倒くさい。
しかし、こういうところで手間を惜しまないのが、しつけというものなのだろう。

同時に、息子がなにかしてくれたときには、こちらも「ありがとう」という言葉を忘れないようにしている。
二歳前後の頃には、ブロックでも、そのへんにある石でも、どんぐりでも、なんでも持ってきて母親に手渡すという時期があり、「はい、どーじょ」「ありがとう」というやりとりが延々と繰り返されたのだが、これも社会生活を行う上での礼儀を覚える過程だという気がする。

また、ダンナやほかのひとに対しても、なにかをしてもらったときには「ありがとう」という言葉を伝えるように気をつけている。
気をつけないと、ついつい忘れてしまうあたり、自分にはきちんと礼儀が身についていないということで、少しはずかしい。

90ミニッツ

梅田芸術劇場シアター・ドラマシティにて『90ミニッツ』を鑑賞してきた。

特にあらすじなどは知らず、このあいだ観た『国民の映画』が面白かったし、三谷幸喜作品ということでチケットをとったのだが、舞台の内容はというと、九歳の子供が事故にあって運ばれた病院で、信仰を理由に息子への輸血を拒否する父親と、手術をするためには親の承諾が必要なのでなんとかその父親を説得しようとする医師との二人芝居で、正直なところ、事前に設定を知っていたらあえて観ようとは思わないタイプの話だった。

手術をして助かるタイムリミットは九十分。
それが舞台上で、リアルタイムで進行していくという趣向。途中、コメディ的なやりとりというか、滑稽ともいえるシーンもあるにはあるのだが、観客席の反応は、これ、笑ってもいいところなんだろうか……というためらいがちな感じな笑い声で、いまにも子供が死にかけている設定だと思うと、自分は一切、笑えなかった。
もともと闘病モノとか子供がつらい目にあう話は苦手だったが、息子が生まれてから特にその傾向が強くなったかもしれない。
観客として舞台を楽しみつつ、作家として脚本を分析しながら、母親として胸を痛めていた。

子供が自分の意志を伝えられない、まだ幼くて意志決定の能力がないとみなされる場合、親が代理でその子の人生に重大な影響を与えるかもしれない決断をしなければならないという責任の重さよ。
ちょうどインフルエンザの予防接種に関連して、現代医学と自然療法や、親のエゴなど、自分でもいろいろと考えていただけに、タイムリーな話題だった。

作中で、父親は「教えでは、他者の肉(血)を体に入れると、死んだ後、生まれ変わることができないとされている。教えを守って、輸血をしなければ、たとえ肉体はほろんだとしても、永遠の命を失うことはない。息子は誰よりも教えを信じているので、輸血をすればたとえ助かったとしても、きっと心に深い傷をおうだろう。息子は教えを破ってまで助かりたいとは思わないはずだ」という意味のことを主張する。

自分でも、講談社の青い鳥文庫から出ている『七時間目シリーズ』などで「オカルト的なものを信じている者の主張vs科学的な考え方」というものを書いていたりして、このあたりは特に興味深いテーマだった。
この論理をどんなふうにくつがえしていくのかと、楽しみにしていたのだが、今回の作品は、その点では不完全燃焼と言えよう。

しかし、先日の『国民の映画』などは完成度も高く、うんうん、いい作品だったと満足して終わっていたが、今回のように、観た後にもやもやして、自分だったらこう展開させるのに……とか考えさせられる作品のほうが、自分が作品を書く上にはいい刺激になったかもしれない。
どうせならもっと明るく楽しく笑えるような舞台を観たかったなあと思いつつも、好みのものばかり選んでいると栄養が偏りそうだし、たまにはこういうものも観ておいてよかった。

インフルエンザでした

息子、鼻水をたらしているなあと思っていたら、案の定、翌日に発熱して、保育園を休むことに。
保育園の先生に電話で「実は園のお友達で三人ほどインフルエンザと連絡を受けておりまして、念のため、トトくんも受診をお願いします」と言われる。そのやりとりを横で聞いて、息子は「こわい……、もしもしせんせ、こわい……」とすでに泣きべそをかいていた。

「もしもし先生のところに行って、帰りに、焼きいも買って半分こしようか」
そう交渉を持ちかけたところ、しばらく考えたのち、息子の天秤がかたむく。
「ぜんぶ、たべる」
「おいも、全部、食べたいの?」
「ひとりで、ぜんぶ」
「わかった。ふたつ買って、いっこずつしよう」

交渉がまとまったところで、病院へ。
受付をしている時点で、もう「こわい……うえーん、こわいよー」と涙を流しまくりの息子。
生まれてすぐにNICUに入れられ、ことあるごとに検査で採血をされてきたので、病院=注射=痛いで、いやな記憶しかなく、おびえまくりである。
診察室で、長い綿棒的なものを鼻につっこまれ、インフルエンザかどうかの判定。これも、もちろん、大泣き。
妊娠検査薬みたいやつに、くっきりとブルーのラインが出ているのを見せられ、ドクターに「はい、出てますね。A型で確定です」と言われる。
「タミフルはどうします?」
そう訊かれ、少しまよったものの、副作用のリスクを考え「使いません」と答える。
さばさばしたドクターは「脳炎とかなりますから、ちょっとでもおかしいと思ったら、すぐ救急車を呼んでくださいね」とこわいことをさらっと言う。
口約どおり、焼きいもをふたつ買って、帰宅。

翌日、自分もだるさを感じて、鼻水が……。
節々が痛み、頭痛を感じて、熱を測ってみると38.5℃あり。
息子とふたり、ひたすら寝る。
息子39.2℃、自分40.5℃まであがり、脳炎におびえる。
水分はまめに摂取するが、食欲はなく、ほとんど食べられず。

ドクターが「一度、熱がさがります。でも、またあがります」と言っていたとおりの経過をたどる。
本当なら、息子が熱のさがった金曜日に、もう一度、受診するように言われていたのだが、自分の体がしんどくて、結局、翌週の月曜日に再び受診。

保育園に行くためには医師の「登園許可証」が必要で、熱がさがってから、保育園の場合は三日後から登園できるということで、もう一日休んで、水曜日から息子は保育園へ行くことになった。

息子ひとりが発熱しているときの看病も、ふたりでひたすら安静に寝ているのも、特に問題はなかったのだが、時間差で、息子だけが先に治って、自分はまだ熱があるときがいちばん大変だった。

こっちはまだ休みたいのに、息子は「おもち、ぺったんこ」と言ってほっぺたをつついてきたり、「どーじょ、ももちゃん、きびんだんご、どーじょ」と見えない吉備団子を無理矢理食べさせて家来にしようとするし。元気になったのはうれしいが、頼むからもう少し静かに寝かせてくれ。

ちなみに、会社で予防接種を受けていたダンナは、せきなどの症状は出ていたものの「高熱は出てないし、これがインフルエンザなら軽くすんでいると思う」と途中までは余裕があったのだが、結局、一週間遅れで高熱を出した。

息子は集団生活をしているし、インフルエンザの予防接種を受けたほうがいいのか、なやむところである。
今回のダンナの様子を見た限りでは、予防接種の効果はどうなのかという気がしてしまう。

結局、九日間も休んでしまったので、仕事が大変なことに……。
しばらく原稿をがんばります。

くだらないボケを連発する

息子は大阪弁でいうところの「いらんことしい」で「いちびり」だと思う。
この年頃の男の子は、だいたい、そうかもしれないが。

それにくわえて、最近では、ボケるようになってきた。

道を歩いているときなど、わざと植木鉢のあるところを直進しようとして「あんよ、かたい……」とつぶやく。
そういうとき、彼はあきらかに「そやな、そこは歩かれへんな」というツッコミを待っている。

車のおもちゃをさわり、あわてて手をひっこめ「あちっ、あちっ!」とかいう演技をする。
そういうときも、彼は「いや、あつくないやろ!」というツッコミを待っている。

きわめつけは、あひる隊長を手に持って「があがあちゃん、どこ? どこいった?」と探すのだ。
やすし師匠の「メガネ、メガネ……」のネタを思い出したよ。